1、ラジオ放送
G3の遠い記憶と、G3の父親から聞いていた記憶ゆえ、いろいろと間違っているところもあるかもしれませんのでご了承ください💦
1925年(大正14年)で初めて日本に「ラジオ放送」というものが始まったらしいのです。
ラジオ受信機は、家庭に初めて持ち込まれた電子機器。
ラジオ販売やアフターケアを専門とする業者は、「ラジオ商」と呼ばれていたそうです。
売りつけておいてアフターケアなどしなかったり、粗悪な物を高額で売ったり、悪質な業者も多かった時代だったようです。
今のような半導体のない時代で、使われていた真空管というものも寿命は大変短く、不安定だったそうで、安定・高性能になってきたのは、戦後しばらくしてからだということ。
故障が多いうえに、よく聞き取れない!というような声が東京放送局(NHK)に来ていたそうです。
2、ラジオ相談所の開設
その対策として、1936年(昭和11年)にラジオ相談所というものを開設する規定(?)が始まったそう。そして、それを開設するには、日本初の家電修理資格である、ラジオ相談所主任技術者検定に合格した者を1名置く決まりがあったそう。たぶんこの頃、G3の父親は、「ラジオ相談所」というのを掲げ、商いを始めたらしいです。
3、ラジオ/テレビジョン受信機修理技術者
戦後もしばらくの間、修理部品を手に入れることも大変で、
G3は小学生の頃、父親に連れられて、一晩中汽車に乗り、東京の秋葉原へ連れて行かれたとか。
アメリカ軍が置いていった、たくさんのジャンク品が販売されているお店を父親と周り、荷物持ちとしてずっと父親の後ろを付いて行ったそうです。
ずっと父親の後ろ姿を見続けて覚えたラジオ・テレビの修理の技術。
厳しい父親だったそうで、一切教えてくれなかったと。だから自分で何度も何度も失敗して技術を身につけたと。
テレビが映らなければどこか、配線が間違っている、父親はどこが間違っているとも教えてくれず、G3がトイレに行くと、ただ黙って、すべての配線を全部パチパチッとペンチで切断するだけ。「ちきしょう!!」という気持ちと、「いつか親父を超えたる!!」という一心だったと言っています。
一緒にがまぐちバッグを作りながら、かれこれ100回くらい聞かされた話です。
そして父親と一緒に仕事を始め、大家族を食べさせていったそうです。
電気製図がとても得意で、学力も大変優秀で(G3本人が言うには😅)、高校を卒業する頃、近鉄大阪車両部から入社依頼が来て、承諾したそうです。ところが、父親に後継になれと命令され、長男であり兄弟たちの学費の面倒を見るために、泣く泣く跡継ぎとなったようです。
84歳になった今でも、「近鉄に就職して製図を描きたかったなあ。」と言っています。
やがて、斉藤ラジオ相談所は優良修理店になりました。
優良修理店しかもらえない、ビクターの「ニッパー」のブロンズ像。その後波乱万丈の人生を歩き、何度も借家を転々としていたときも、絶対にずっと手放さない、ニッパーと結婚写真。
今ならなんとなくそうゆうG3の気持ちがわかるようになってきました。
一番最初に作ったがま口財布が、「下手くそ!」って娘に言われた時に、あの頃の魂がよみがえってきて、「絶対、上手になって、娘をあっと言わせたる!」って思ったんやー。
たしかに下手やったもん。
それでも何個も何個も作って見せてきて
「もう、いいよ、要らないよ、
作るのやめてよ。脚むくんでるやん!」
って言われても作り続けてたよね。
4、抜けない習慣のこと
今でも使用後のミシン自体のホコリ取りや掃除は当たり前で、外部もピカピカに磨き、周りや床にも糸くずが一本も落ちていないように、工程ごとに掃除をしています。
修理部品が手に入りにくい時代に生き抜いてきたG3。
ネジ1本が貴重品。落としたり、無くしてしまったりしては大変。今でもその精神でお仕事しています。見習いたいと思いつつ、なかなかそこまで出来ません💦